「死」は終わりでしょうか。この世の常識ではそうでしょう。しかし、聖書では「死」を単なる終わりではなく、次なるステージへのスタートであることが書かれています。「死」をどちらとして捉えるかによって、人の生き方は大きく変わってきます。
『また、私たちキリストをのべ伝える者たちが命の危険を冒しながらも伝道できるのはどうしてなのか。私にとっては、死の危険は毎日のことだ。これは、うそ、偽りではなく、本当のことだ。』(新約聖書 第一コリント人への手紙 15:30,31現代訳)
以前のパウロは、イエス・キリストを迫害するものでした。イエス・キリストの復活を信じる者が「永遠のいのち」を得て、復活するという「福音」に真っ向から反対する者でした。しかし、彼は復活したイエス・キリストに出会い、否定できない真実を目の当たりにし、自分の命をかけてまでも福音を伝える者になったのです。その内容は15章の中で何度も説明されています。
イエス・キリストを信じる者は、死んだ後、パラダイスというところへ行き、その後、天国へ行き、朽ちない姿に変えられます。これが復活です。ですから、告別式は地上での人生の卒業式とも言えます。神の助けにより、この世で信仰を持って生活できたことを感謝する時です。つまり、この世での人生を終え、パラダイスへ行くとは、ちょうど小学生が中学生へ進学する晴れがましい時のようなものです。もちろん、残された者にとっては、悲しみがあるでしょう。しかし、それは失望による悲しみではなく、希望のある悲しみなのです。なぜなら、この世の別れは一時的なもので、すぐにパラダイスで再会できるからです。
死を終わりとして捉えるなら、今積み上げていることの意味がなくなってしまいます。しかし、死んだ後があるのですから、後につながる意味ある生活をすることができます。私たちがこの世で労苦したことは、決して無駄になりません。私たちが労したことは、天に持っていくことができる宝なのです。
『ですから私の愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから。』(新約聖書 第一コリント人への手紙15:58)
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