イースターはイエス様が十字架につけられて3日目の朝によみがえられたことを記念して祝う日です。イエス様が十字架に向かう時の弟子ペテロの様子と復活の出来事を通して、イエス様は私たちに向けてどんなメッセージを語っておられるのでしょうか。
新約聖書 ルカによる福音書 54〜60節に、引かれていくイエス様のあとをペテロがついて行った様子が書かれています。ペテロは遠く離れて、ついて行きました。それは、いつでも逃げ出せる状態に自分を置いていたことを意味します。また、ペテロは自分が目立たないように周りに合わせて同じ行動をとりました。それは、自分に自信がないことの表れです。そして、彼は弟子であることが発覚した時、イエス様のことを知らないと嘘をつきました。それは自分を守るためでした。
こういったペテロの一連の行動は、実は私たちの生き方を現しているのではないでしょうか。イエス様の前では、自分は決してイエス様を裏切らないといったペテロが、自分を守るためにイエス様を裏切った時、イエス様は振り向いてペテロを見つめられました。その時イエス様は、そのまなざしでペテロに2つのことを伝えていたのです。
1つは「わたしはあなたを責めない、ゆるす」ということです。自分は絶対に裏切らないと豪語したペテロは、このことで自分の弱さを思い知り、しかもそれがイエス様の前でさらけ出されたのです。もはや自分を正当化できない、どうしようもない者だと自覚した者に対して、神様は責めるのではなく、赦す愛を与えられます。
もう1つは「わたしもあなたとともに苦しんでいる」ということです。弱さ、そして罪の中にあるということは苦しみです。弱さ、罪の中にいる私たちの苦しみを共有するために、あえてイエス様は十字架を選びました。そして、それらの弱さと罪を私たちの代わりにその身に負って死ぬことで、私たちを苦しみから解放しようとされたのです。
23章34節には、十字架の上におられるイエス様が描かれています。イエス様は息絶える直前まで人々のゆるしのためにとりなして祈り続けられました。このことを通して、神は、決して私たちに対してあきらめないということが分かります。神が私たちを見捨てることはあり得ないのです。自分が神に愛されていないと思うのは、感情的にそう思うだけであって、事実ではありません。
24章で、イエス様が十字架の上で死んでから3日目の朝を迎えます。イエス様の墓に来た女性たちに対し、御使いが「ここにはおられません。よみがえられたのです。」と告げます。復活が起こったのです。私たちに解決できない問題の筆頭は死の問題でしょう。しかし、イエス様の復活は死の問題の解決を明確に現しました。復活という普通では考えられないイデオロギーが全世界に広まったのは、その事実を目の当たりにした人がいるからに他なりません。弟子たちはすべてイエス様を裏切りました。その弟子たちが後の激しい迫害の中でも命がけでイエス様の復活を伝えたのは、揺るぎない事実に影響を受けたからです。死の問題を解決できる神が、他の問題を解決できないということがあるでしょうか?
『ここにはおられません。よみがえられたのです。』(新約聖書 ルカによる福音書 24:6)
私たちは自分のことや周りのことで、「ここに問題がある」と思っています。しかし、神の側からすれば、そこには問題がないのです。私たちが勝手に解決できないと悩んでいるだけであって、神にしてみれば、それは解決しているのです。死の問題だけでなく、自分の醜さも、罪の問題も、私たちが問題と思うことは、私たちには解決できなくても、神はすでに解決を用意しておられます。
|