『・・・事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。』(新約聖書 第一コリント人への手紙 4:1-5)
さばくことと悔い改めることは違います
さばくことも悔い改めることも悪い部分を明らかにする行為ですが、それが自分自身が神の前に悔い改めることにつながるならよいのです。しかし、自分や他人をさばくことにつながるのは問題です。さばくとは「だから自分はダメだ」「だからあなたはダメだ」とダメだという結論を導き出そうとする行為です。
反省は大いにしたらいいのですが、自分も、他人も、さばいてはいけません。なぜなら、私たちをさばかれる方はただ一人、主イエス・キリストだからです。主の領域を侵してはなりません。
『さて、兄弟たち。以上、私は、私自身とアポロに当てはめて、あなたがたのために言って来ました。それは、あなたがたが、私たちの例によって、「書かれていることを越えない。」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。 あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています。私たち抜きで、王さまになっています。いっそのこと、あなたがたがほんとうに王さまになっていたらよかったのです。そうすれば、私たちも、あなたがたといっしょに王になれたでしょうに。』(新約聖書 第一コリント人への手紙 4:6-8)
ここでパウロは手紙の目的について触れています。
1.「書かれていることをこえない」ことを学ぶため
書かれていることとは、聖書の言葉を指します。聖書の言葉を超えないとは、聖書に従って物事を考えられる事であり、成長するほどそれができるようになります。聖書に従って物事を見るとは、「神様ならどうされるだろうか?」「神様はこの人のことをどう見ているだろうか?」と考えることです。神様の目で、人や自分を見られるようになると心に平安がおとずれます。それを目指していきましょう。
2.高慢にならないように警告している
一方にくみし、他方を反対するとは、自分でこれが良い、悪いと判断する、つまり、自分を正しいとする高慢な行為です。例えば、教会ごとに礼拝のスタイルや、雰囲気等かなり違いがありますが、主はどれも良しとされているのであって、自分の好みに合うものを正しいとするのは間違いです。また、私たちもそれぞれ性格や顔かたちが違いますが、主がそのように作られたのであって、私たちが互いに、また自分のことも良い悪いと判断するのは高慢です。
3.すべては神のもの
今私たちが手にしている権威、名声、金、能力等すべては神様が私たちに与えたものであって、私のものではありません。すべての所有権は神にあるのです。自分で獲得したかのように誇ってはいけません。
また、見えるところが豊かになると、自分の信仰がすでに完成されたかのように、錯覚を起こしてしまいます。しかし、私たちは生涯成長し続けるものであり、完成に至るのは、主イエス・キリストが再臨された後です。ですから、信仰の幼子をさばいたり、未信者をさばいたりしていませんか。それは高慢な印です。主は高慢になってはならないと警告されています。
私たちは苦難を通して成長します。苦難の中でも神の恵みに支えられることを知り、自分へのうぬぼれによる満足ではなく、神の恵みによる満足を知るようになるのです。
『私がこう書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、愛する私の子どもとして、さとすためです。たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。』(新約聖書 第一コリント人への手紙 4:14-16)
自分に関係ないと思えば、誰も注意してくれません。相手を愛するがゆえに過ちを注意するものです。だから、注意してくれる人は大切にしなければなりません。謙遜に聞く者になっていきましょう。
『神の国は、言葉ではなく力にあります。』(新約聖書 第一コリント人への手紙 4:20)
私たちは御言葉を通し、自分の心に照らされる罪や弱さを感じるものです。しかし、自分の力で頑張って自己改善するのではなく、神様の力である聖霊様に頼っていきましょう。聖霊様は私たちを導いてくださる方です。私たちは理屈ではなく、聖霊様に導かれて歩んでいきましょう。
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