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2003年1月12日 礼拝メッセージ
コリント人への手紙から学ぶこと 1
(新約聖書 第一コリント人への手紙 1:2)

私たちは、コリント人への手紙から、多くのことを学ぶことが出来ます。コリントは当時のローマ帝国の中心都市の一つで、歓楽街でもありました。パウロは、伝道が難しいと思われる、このコリントにあえて教会を築き、一年半の間に7万人以上の人々が救われました。しかし、あまりに急激な成長を遂げたため、問題も多発しました。「コリント人への手紙」は、それらの問題にどのように対処すればよいか、コリントを去ったパウロが後継者アポロに向けて出した手紙です。

当時のコリントで起こった問題は、そのまま、今日の教会にも該当します。聖書の原則を学ぶことで、一つ一つのことに正しい聖書理解ができるようにし、一致を保っていきたいと思います。


「私たちの主イエス・キリストの御名を、至るところで呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なる者とされた方々へ。」(新約聖書 第一コリント人への手紙 1:2) 


聖徒と言うと何かとても立派な人のように錯覚してしまいがちですが、そうではなく、イエス・キリストを信じる人たちすべてのことです。この続きには、「主はすべての人々の主です。」とあります。これは、私たちはOne of them(みんなの中の一部)で、自分は特別な存在だという意識(高ぶり)は間違っていることを教えています。コリントの教会は確かに多くの恵みを受けていました。私たちの教会も大変立派なものが建つわけですが、「私たちの教会は特別に神に愛されている」という意識を決して持たないようにしましょう。私たちはOne of themです。


「あなたがたのことをいつも神に感謝しています。」(新約聖書 第一コリント人への手紙 1:4)


パウロが手紙の冒頭で「感謝します」という表現を用いるのは稀なことです。しかも、問題が山積している教会に対してです。

ヤコブ1章3節には「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」とあるように、問題にぶつかったときにこそ、私たちは主に感謝を捧げる必要があります。試練は私たちを成長させるものです。もし、私たちが問題を感謝しないのならば、主が何を語っておられるのか見えなくなってしまいます。どんなに大きな問題でも、必ず感謝する側面があるはずです。

また、パウロはこの後、コリントの教会の問題点に触れていくわけですが、問題の核心に迫る前に、まず相手の良い点を見つけています。ここから私たちはよりよい人間関係について学ぶことが出来ます。人との関係を円滑に保つためには、まず相手の良い面を見つけることです。その上で、問題点を話していくなら、相手は聞く耳を持ち、よい解決を得ることが出来るのです。


「さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。」(新約聖書 第一コリント人への手紙 1:10)


これがこの手紙が書かれた目的です。パウロは「皆が一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。」と勧告しています。教会に必要なものは、同じ心(ビジョンの共有=主の栄光が現わされることを願う・伝道)と同じ判断(聖書理解の一致)を保つことです。


「あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく。」「私はアポロに。」「私はケパに。」「私はキリストにつく。」と言っているということです。」(新約聖書 第一コリント人への手紙 1:12)


主が最も忌み嫌われる罪、それは「分派」です。ですから最初にこの問題が取り上げられているのです。この世の中は、人との繋がりで成り立っています。その世の中と同じ考え方によって、教会の中でも人に繋がろうとするところから分派は始まっていきます。

例えば、教会で奉仕をしても誰も褒めてくれなかった、とか、自分が困っているときに誰も助けてくれないということで、不快に思ったり、腹が立ったりしたことはないでしょうか。このようなことは、誰もが一度は経験する思いでしょう。これは、人に目が向いている時、すなわち人につながることを求めている現象です。

しかし、信仰が成長してくると、人に繋がるのではなく、神に繋がることを学びます。自分はキリストの体の一部分で、すべてのことを神に対して行ない、神に対して生きていることを知るのです。私たちは、神様の前に生きる存在です。神との関係が良く保たれることによって、平安になるのです。決して、人に繋がることでは、平安は得られません。

また、彼らの主張の中で「キリストに直接つながる」という主張も間違っています。彼らは使徒の権威も、指導者の権威も認めず、それぞれが自分の経験や知識による判断で勝手な主張を繰り広げていたのです。私たちはキリストの体の一部です。「…につく」という発想は、キリストの体を分割することです。その様なことが決してあってはいけません。


「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(新約聖書 第一コリント人への手紙 1:18)


人が勉強することによって神を知ることが出来ないように定められているのは神の知恵です。哲学における「神証明」の結論は、「人が神を証明することはできない」ということです。それは神の御前でだれも誇らせないためなのです。

十字架の言葉(私たちの罪を赦すために、神が十字架で身代わりになってくださったこと、また、そのことを信じる者は罪が赦されるという教え)は、しるしを求める人にとっては何の意味もないものです。しかし、まことに神を求める人にとってはどうしても必要な神の力なのです。

日常の生活でイライラし、腹が立つ究極の原因は、処理されていない罪があるためです。これを正当化するために人を攻撃したり、隠そうとしたりします。しかし、この罪が処理されない限り平安を得ることはできません。私たちは自分の罪に気づく必要があります。

罪の解決は、赦されることなしにあり得ません。

罪の赦しを信じ、受け入れても、罪責感が消えないことがあります。だからと言って、赦されていないということではありません。罪を悔い改めれば、必ず赦されるのです。罪が赦された後に残る罪責感というものは、赦される前の罪責感とは異なるもので、実は神の恵みなのです。この罪責感は、2度と同じ過ちを繰り返さないための心の見張りになっているのです。罪赦されたことで、この痛みは神の前にへりくだる良い材料へと変えられます。

私たちは十字架の言葉によって罪赦され、救われました。このことを神の力として受け入れ、自分の誇りとして生きていきましょう。 



神木イエス・キリスト教会


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