人は、何かを信じないではいられない存在です。そして、何かを信じることで心の安定を図っています。
ただし、何でも信じれば良いというわけではありません。何を信じるかを吟味することは大変重要です。食べる物にしても、体に良いものか吟味するでしょう。食べる物によっては死を招く危険性もあるからです。
同様に、私たちの魂も何でも食べて(信じて)いいと言うことではありません。 私たちが信じることを避けられない者ならば、どのような姿勢で信仰を持っているかということが大切なポイントになってきます。聖書は、正しい信仰の姿勢を次のように教えています。
「あなたがたは、信仰にたっているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。」(新約聖書 第一コリント人への手紙 13:5)
第1番目に、自分の考えを優先させないことです。
聖書は神の言葉(真理)です。自分の考えを優先させることは真理に逆らうこととあります。(8節)聖書にはこう書いてあるけど、「私はOOだと思う」と、自分の考えを優先させている限り、私たちは成長しません。聖書の言葉と自分の考えが違うことを見つけたなら、それは成長するチャンスです。神様が興味のあるのは、私たちがどう思うかではなく、私たちが、御言葉に対して謙遜に実行しようとするかどうかです。
「…たとい私が持っているものの全部を貧しい人たちに分け与え、また私の体を焼かれるために渡しても、愛がなければ何の役にも立ちません。」(新約聖書 第一コリント人への手紙 13:1-3)
第2番目に、愛に根ざしていることです。
愛がなければどんなに立派なことをしても、意味がありません。憎しみが土台になっているのなら、どんなによいことを成し遂げても、それは必ず崩壊します。では愛とは何でしょうか?
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(新約聖書 第一コリント人への手紙 13:4-7)
愛を「I(私)」と置き換えて読むと、自分に愛があるか確認できます。この箇所から、愛とは以下の3つに要約できるでしょう。
「怒らない」
見返りを期待しないので腹が立たない。
「ねたまない」
自分と人を比較しない。人の祝福を自分のことのように感謝する。このことで自分と戦う必要があります。これを経て、神のためによい仕事ができるうになります。
「期待する」 神に対して期待することで、ゆとりが生まれ、そこから愛が生まれるのです。
「あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるためにそれが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。」(新約聖書 第一コリント人への手紙 14:12)
第3番目に教会に根ざした信仰であることです。
宗教一般は、自分の利益を求める自己中心な考えをもとにしています。その多くは、何もしないで何か得ようとする姿勢が土台になっています。しかし、聖書が教えているのは、自分の徳を高めることでなく、キリストの体である教会の徳を高めることです。
私たちはそれぞれ体の一部であり、体は一部分だけ切り離して強化することなどできないからです。そのためには私たちは教会の徳を高めるために何ができるだろうか?と考えて行動することが大切です。これは私たちの属する家庭、職場、どの社会においても必要なことですが、自分が属する組織の責任者だったらどうするか?と考えることです。
その時初めて、不平ではなく生産的なものの見方が生まれ、自分のすべきことが分かります。そして、教会のために自分がなすべきことを知り、行うなら、キリストの体全体が成長し、いつしか自分の問題も解決しているのです。
自分の信仰の姿勢をこれらの御言葉に照らし、神の前に成長していきましょう。
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