あなたはこんな風に思ったことはありませんか?
「私はクリスチャンなのに、聖書の言葉を守れない。」
「私は聖書の教えを守れないから、クリスチャンにはなれない。」
「クリスチャンになると戒律が厳しそうだから、私は遠慮します。」
確かに聖書の教えを完璧に守ることは、誰にとっても大変難しいことです。でも、聖書の言葉は、私たちを苦しめるために書かれたものではありません。
「律法(神の戒め)は何のために与えられたのであろうか。それは、人間が律法を守ることができない者だということを分からせるために与えられた・・・もしも、律法が私たちに救いを与えるものであったとしたら、私たちは律法を守ることができたはずである。聖書は、私たちがみな律法を守れない罪人であると言っている。それは、イエス・キリストを信じる人々だけが救われるという神の約束の通りである。」(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:19-22 現代訳)
聖書の教えは、私たちを評価するための基準ではありません。「これができるようになったら、もっといい人になれますからがんばりましょう。」と教えるためではなく、むしろ「私にはこれもできない、あれもできない」と、気づかせるために書かれたのです。それは、すべての人が自分の力では自分を救うことが出来ないことを悟らせるためです。
聖書は、すべての人は罪人であり、イエス・キリストを信じることで救われると教えています。何かいいことをしようと努力したり、立派な人間になろうとしても、誰も完璧にはなれません。すべての人に神の助けが必要なことを、聖書は教えているのです。
私たちの関心は「何が出来るか、出来ないか。何をやったか、やらないか」にあります。しかし、聖書は次のように教えています。
「キリスト・イエスを信じる者たちにとって、割礼を受けたかどうかは問題ではなく、愛を生み出す信仰だけが大切である。」(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:6 現代訳)
割礼とは、行いの象徴です。あなたが立派な行いが出来るか、出来ないかではなく、愛を生み出す信仰が大切なのだと聖書は教えています。互いを大切にし合う愛の始まりは、言葉です。相手のことを生かす言葉を発するなら、あなた自身も心地よくなります。あなたの語る言葉が大切なのです。
さて、行いよりも心が大切というのであれば、私たちは、神の教えを無視し、好き勝手自由に振る舞っていいということなのでしょうか。いいえ、すべての人には向上心があり、より良く生きたいと願っています。ですから、好き勝手に生きても心に平安や喜びを感じられず、満たされない思いを抱えてしまいます。
聖書は行いに目を留めず、神に目を留めることを教えています。
日本で育った人は、日本語を話すことに苦労を感じません。それは、毎日の生活の中で自然に耳から入ってきた言葉が、自然に身についたからです。同様に、私たちも、神と交わっていくうちに、自然と神の考えを学び、その習慣を身につけることが出来ます。
行いを立派にしようと努力するのではなく、神と交わってください。神と交わるとは、神に祈り、聖書を読み、賛美をする・・・等です。
「もし私たちが御霊(神)によって生きるなら、御霊(神)に導かれて進もうではありませんか。」(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:25 新改訳)
神と交わり、神に導かれて生きていきましょう。
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